答えは1つじゃない
*コロナ前の話です
わたしはキリスト教徒ではないが、思うところがあり時折り教会に行く。
その話はまたいずれ書くとして割愛するが、教会ではお祈りをしたりミサに与ったりするために行く。
数年前のクリスマスにある教会でラテン語のミサがあるというので行くことにした。
入り口で小さなカードが1人に一枚渡されて、そこには聖書の一節が書かれていた。
私はその言葉を読んだ時、密かにドキリとした。
私という存在の今ここにある意味みたいなものを示すような言葉に思えた。
ミサの途中に献金箱が回ってきた。
その時、一緒に来ていた相棒が財布に一万円札しかないので千円を貸して欲しい、と言ってきた。
財布を覗くと一万円札1枚と千円札1枚。
でもこの千円札は私が献金箱に入れる分なので貸せない。
それを聞いて、相棒はじゃあ一万円札を入れるからいいよ、と言った。
それは非常に美しいことではある。
本来ならそうすべきだろう。
でも、そうしたらこの後の予定はどうなるの?
帰りの交通費はどうするの?
浅ましい心配をした私は財布に入れていたお守りの千円札(ある方に頂きずっと財布に入れて持ち歩いていたもの)を差し出した。
あっ、今思い出したけど、結局この千円返してもらってない∑(゚Д゚)
ミサが終わり、入り口でもらったカードの裏にマークがついていたらプレゼントがいただけるという。
確認したら相棒のは外れていたが私のには印がついていた。
クリスマスにこんな良いことがあるなんて!
私はウキウキとプレゼントを受け取りに行った。
行くと、プレゼントはCDかDVDで、 CDは既に無くなりDVDしか残っていないということだった。
家にDVDプレーヤーが無いのでせっかく頂いても観る事が出来ない。
ところが、この時の私の頭には断るという選択肢が浮かばなかった。
当たったのだから受け取らなければならないと何故か思っていた。
じゃあDVDを頂きます、と答えると、
「2000円です」
と言われた。
エッ?(´⊙ω⊙`)
これ…プレゼント…ですよね…?(・・?)
「そうなんですけど、でも…」
教会の人はそこで言葉を切った。
でも?
でも、なんですか?
"でも"の言葉の続きを待ったが、教会の人はそのまま黙り込んだ。
気まずい沈黙が流れた。
私は財布から一万円札を出した。
「えっ、一万円札しかないの?」
教会の人は明らかに不快そうに言った。
千円札もあったんですが、ミサの時に献金箱に入れてしまったので…
「もー、じゃあちょっと待ってて」
今や教会の人は怒り口調でタメ口になっていた。
何故ここで私はいりませんと言えなかったのだろう?
プレゼントとはいえもらわないという選択、辞退するという選択があるはずだ。
なのにこの時の私はそれをどうしても思いつかなかった。
教会の人は一万円札を持ってどこかへ行き、かなり経ってからようやく戻ってきて丸まったお札を私の手に押し付けた。乱暴で荒々しい態度で明らかに気を悪くしていた。
釈然としないまま、それでも一刻も早くその場を離れたくて私はそそくさとお金とDVDを受け取り帰った。
家に帰ってお金を見たら7000円だった。
わざとなのか数え違えたのかは知らないが、とにかく私はプレゼントという名目で観られもしない定価2000円のDVDを3000円で買わされてしまったのだった。
おまけに、私にとって非常に意味深い言葉が書かれていたカードは取り上げられたまま返してもらえなかった。
(相棒はそのカードをポイと捨てていたが)
献金箱に千円、相棒に千円(しかも何年もお守りにしていたもの)、DVDに三千円、合計五千円というのは正直かなり痛い出費であった。
そういえば交通費も二千円ぐらいかかっている。
当時無職で貯金を食い潰していたのでこれは死活問題レベルの出費となった。
それと同時に、身を持って"選択する"という事を学んだ。
もし目の前に2つの選択肢が示された時、本当にどちらかしか選べないのだろうか?
YES/NO、白か黒か、行くか戻るか、やめるやめない
答えが出せない時、"どちらでもない"という第三の選択があっていい。
教会の一件は私が"プレゼントが当たったので貰う"という一択しかないと思い込んでいたことからの手痛い思い出だ。
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